略
歴
1932 クロアチア北部、ポードゥラビナ地方バティンスカ村に生まれる(1
月1日)
1945 ノートに鳥の絵を描き絵心を育んでくれた父を戦争でなくす
1948 農業に従事しながら村の家々の壁に宗教的情景を描く(〜1952
年)
1957 ザグレブに移り郵便配達をしながら夜学で絵を学ぶ
この年、初めてガラス絵を描く
1962 ザグレブで初の個展、仲間とともにプリミティブアート協会を設立す
る
クルスト・ヘゲドゥーシッチ教授と知遇を得る
将来のためこの上もなく重大な出来事となる
この頃からラツコヴィッチ独自の世界を表現
1969 パリで初の個展、以降クロアチア国内外で数多くの個展グループ展が
開催される
1986 『ユーゴスラビア―11人の素朴画家展』(東京・世田谷美術館)
1987 ナイーフ三人展『原田泰治とユーゴの仲間たち』(
東京・新宿伊勢丹 他) 来日
1991 (クロアチアがユーゴスラビアから独立)
1992 トゥージュマン大統領に招聘され国会議員となる(〜2001年)
1998 ロシアでクロアチア・ナイーブ展が
開催される
2000 アメリカ・フロリダ州で『クロアチア・ナイーブアートの
幻想的な世界』展が 開催される
2004 死去(8月29日 72歳)
● ラツコビッチ芸術について
イワン・ラツコヴィッチ・クロアタは、1969年のパリで世界
的芸術評論家ジェームズによって、ナイー
ブアートの世界における偉大な素描家と評された。また、フランスの批評家達
は、親しみを込めて「クロアチアからやってきた人」という意味の“クロアタ”
と いう愛称で、彼のことを呼ぶようになっていた。
その頃彼はユーゴスラビア人画家と紹介されていた。なぜならクロアチアは、
1918年から南スラブ共同体に属する一民族にすぎなかったからである。その
た
めラツコヴィッチ芸術における顕著な主たるテーマは、生まれ故郷への愛と自由
への切望である。
ラツコヴィッチは、1932年1月1日ハンガリー国境のポードゥラビナ地方バ
ティンスカ村の、貧しい農家の長男として生まれた。1945年、戦争で父を亡
く
し、幼い弟たちを育てるために、彼は最も厳しい日雇い労働者として働かなけれ
ばならなかった。
クロアチア・ナイーブアートの典型的な技法であるガラス絵に描かれたたラツコ
ヴィッチの風景は、小さな田舎のやさしいわらぶき屋根の家々、葉を落とした高
い木々、草原の草花、村人たちの日常生活など、彼の若かりし日の記憶によるも
のである。ナイーブアートは、作家自身と彼の生まれ故郷を語っていると言え
る。
クロアチアのナイーブアートは、ポードゥラビナ地方出身の画家、クルスト・ヘ
ゲドゥーシッチによって提唱され、グループ“大地”という学校として生まれ
た。ヘゲドゥーシッチはパリ時代、フランドル地方出身の画家ブリューゲルの作
品や、洗練された画風のアンリー・ルソーに深い感銘を受けていた。写実画家で
あったヘゲドゥーシッチの作品のテーマの中心は、社会的にも経済的にも見捨て
られ苦しい生活を強いられていた農民の姿であった。
政府への反抗的な姿勢のため、彼は警察からの圧力をしばしば受けていたが、そ
れをものともせず制作に打ち込んでいた。
グループ“大地”では、芸術大学で学んだ画家もそうでない画家も、一体となっ
て共に活動していた。それは才能があれば卒業証書は問題でない、という確信を
持っていたヘゲドゥーシッチの指導によるものである。“大地”出身の第一世代
で最も有名な画家は、イワン・ゲネラリッチであり、ラツコヴィッチは次の世代
の
メンバーであった。1957年、ラツコビッチは、家族とともに、ザグレブに移
り住んだ。その頃彼は郵便配達夫として働いていたが、ヘゲドゥーシッチの指導
を受けたことで、次第にプロの画家として自立したいという願いをもつように
なっていった。
1962年頃より、クロアチアのナイーブアートは大きく成長し、まもなくラツ
コヴィッチの名も広く欧州に知られるところとなった。
彼の素描を見ると、戦争反対、崩壊していく村、そして時には堕胎への心の痛み
など、実は隠された意味があるのがわかる。しかし、彼の作品の主たるテーマ
は、やはり生まれ故郷への深い愛と自由への切望であった。
彼はザグレブ郊外にある慎み深いアトリエで、制作を続けてきた。それは郵便配
達夫をしながら手に入れた家である。アトリエには世界中から訪問客が絶えな
い。その中には日本からのお客や画学生もいた。やがて彼は日本との親密なつな
がりを持つようになる。
クロアチア・ナイーブアートのフランスでの成功が、日本でも報じられるように
なった頃、日本の素朴画家原田泰治の目にとまった。彼は何度かザグレブを訪
れ、他のナイーブアーティストの住む地域も訪ねた。そして、1984年、ラツ
コヴィッチとラブジンを日本に招くことをとりなした。1987年、二人の画家
は
日本で忘れることのできぬほどの歓迎を受け、東京や大阪のほか、広島を含むい
くつかの都市を訪問した。二人の来日までに、世田谷美術館では2度のクロアチ
ア素朴画展が開催された。
ラツコヴィッチは語る「日本の芸術に対して特別な親しみを覚える。それは、そ
の正確さ、精密さにおいて自分の素描に似ているからだ」と。
さらに彼にとって嬉しいのは、日本に住む美術教師山崎富美子が、ラツコヴィッ
チと“日出づる国・日本”との永遠の関係を継続してくれていることである。彼
女 はラツコビッチの展覧会を何度か準備し実現させてきた。
ラツコヴィッチはさらに続けて語る。「クロアチアは人口
450万の小さな国である。一方日本は世界における中心的存在であり、クロア
チアはこれからも多くのことを学ぶであろう」と。
その二つの国が、芸術という掛け橋によって結ばれていることに感謝しながら。
ム
ラデン.ハンズロフスキー(評 論家・ジャーナリスト
・クロアチア 故人)
※ラツコビッチ芸術に関する大著を残している
2004.11 ラツコヴィッチ展(f分の1ギャラリー)に寄
せられた文章より
翻
訳:山崎富美子
左よりラツコヴィッチ氏、ハンズロフスキー氏、山崎
(2001年/ザグレブ)